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こんにちは。メンタルすこ〜し弱めのあにとらです。

 

なのに、来てしまいました。

カンボジアの負の歴史の象徴

”トゥールスレン虐殺博物館”。

 

 

 

虐殺!!?

なんぞや!!?

 

という方は、以前のブログ

【カンボジア】キリングフィールドと戦争博物館 in シェムリアップ

【アキラ地雷博物館】カンボジアの負の遺産。日本人ボランティアの川広さんと出逢う。

を読んでいただくか、

 

Google先生に”カンボジア 歴史”、”ポルポト政権”、”クメールルージュ”と聞いてみてください。

 

おそろしく理解不能な、つい最近まであった現実の話。

 


 

 

トゥールスレン虐殺博物館は多くの無実の人々を監禁し、拷問をした場所。

 

この場所に収容された人々は最終的に、全員殺されました。

 

その”粛清”として虐殺が実施された場所が、以前のブログでもお伝えしたキリングフィールドです。

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生き残ったのは、技術者など、有用と判断された数名のみ。拷問をしていた管理側の人間まで、虐殺されていきました。

 

その生々しい写真と、実際に使われていた牢屋や鎖、拷問の際に縛り付けておく鉄のベッド。

 

当時のまま残された場所を見てきました。

 

この博物館は慰霊の場でもあるため、撮影禁止の部分が多いです。撮影禁止マークのない部屋と外回りの写真だけですが、載せていきます。

 

気分が悪くなったら、無理をせずこのページを閉じてください。ブログだけでは到底説明できない、恐ろしい現実でした。

 

 

入口です。

 

すぐ近くには地元民の多い店が立ち並んでいて、割とローカルな雰囲気の住宅・商店のある地域です。

 

この博物館の入口はトゥクトゥクの声掛けなど、観光地っぽい雰囲気もあります。

 

 

入口で入場料3ドルと、日本語の音声ガイド料3ドルを支払って入っていきます。

 

「この博物館は音声ガイドありき」という感じで構成されているので、必ず借りましょう。これがないと、”ただグロテスクなものを見るだけ”になってしまいます。

 

 

周りは有刺鉄線が何重にも張り巡らされています。

 

 

入ってすぐに白い14の墓があります。

 

これは、このトゥールスレン博物館、当時の呼び名で「S-21」という収容所が発見された時に、無惨な姿で残されていた14人の方々に対する慰霊の意を表しているそうです。

 

発見された時点で、管理側の人間はあらゆる書類を破棄して、既に逃げていたそうです。

 

 

こちらが建物。

 

実はこのS-21は、収容所となる前は子供たちの笑い声が響く、普通の学校だったそうです。

 

このような校舎がコの字型に4棟あり、中央には校庭が拡がっています。

 

 

暑いカンボジアでは、壁の上の方は通気口があるのですが、この棟は全て塞がれています。

 

拷問者の声が外に漏れないようにしていたそうです。

 

 

中に入っていくと、広い部屋の真ん中に、さびた鉄のベッドと鉄の足かせがありました。

 

壁には発見当時の白黒写真が掛かっています。

 

ベットに横たわるご遺体と血。

 

発見者の心情は図り知れません・・・

 

(このあたりの部屋は撮影禁止だったので、別の部屋の写真を載せています。)

 

 

壁には黒板がかかっています。

 

文明を否定する政権だったので、勉強なんてもっての他です。

 

当然、学校にいた子供たちは、農村での強制労働やクメールルージュでの兵役を課せられました。

 

 

階段を見ると、本当に”普通の学校”という雰囲気です。

 

ここで、悲惨な拷問が行われていたとは想像できないほど・・・

 

 

S-21の尋問規則について記された看板がありました。

 

ちゃんと答えない場合に、何回ムチ打ちがあるか、電気ショックを与えられるか、などが書かれています。

 

 

校庭には、ブランコの支柱のようなものがありました。

 

が、その下には壷と収容者の像があります。

 

この支柱を使って収容者をつり下げ、排泄物の入った壷に何度も顔から突っ込み、尋問したのだそうです。

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有刺鉄線の張り巡らされた棟もありました。

 

収容者が自殺を図ったため、設置されたそうです。

 

尋問し、何ページにもおよデッチアゲの調書を作り上げ、正規の方法(キリングフィールドでの撲殺)を完了するまで、収容者は死んではならないのだそうです。

 

誤って途中で死んでしまった場合、その管理者が今度は尋問を受けることになります。

 

 

なぜ、このような政権が支持されていたのか・・・

 

それは、ベトナム戦争においてカンボジアなど周辺諸国も戦場となってしまい、多数の人民が苦しんでいたから。

 

ずっと以前からあった原始共産主義(原始時代にもどろう!という考え。)を持っていた人々が、人民の苦しみに漬け込んだから。とのことです。

 

 

なぜ、国際社会はこのような悲惨な事態を見逃してしまったのか。

 

虐殺が日々繰り広げられているのに、ポルポトはなぜ、国際的な会議に、当然のように出席していたのか。

 

それは、現在の北朝鮮のように徹底したメディアの除外があったから。

 

 

そして、有識者たちを次々に殺し、なにも知らない無垢なこどもたちを働き手として利用したから。

 

この虐殺博物館では、多くの少年少女の写真を目にします。

 

罪をかけられた人の家族は全員殺す。

 

赤ちゃんを抱いた女性の写真もありました。

 

その赤ちゃんがどうなったのか、個人個人の資料は残されていないので詳細は不明ですが、多くの赤ちゃんは木にたたきつけられて殺されたそうです。

 

ここでの”罪”とは、どこぞCIAのなんたらだとか、スパイがどーのこーのとか、一般市民に縁のないことを拷問の最中に自供(?)させられるのです。

 

もちろん、「CIAってなに?」という人がほとんどでしょう。

 

そして、嘘っぱちの調書ができあがったら有罪となり、キリングフィールドへ連れて行かれ、大きな穴の前に座らされ、木の棒で撲殺される。

 

この収容所の管理者の写真には、たくさんの少年がいました。

 

彼らは”幹部”として収容所で働いていたのです。

 

読み書きのできない人がほとんどなので、独房の鍵をかける壁にも数字の代わりに短い線が引かれ、それで数字代わりとしていたようです。

 

読み書きができたら、殺されてしまうかもしれないので、できないフリをする人もいたかもしれません。

 

 

 

カンボジア人が、カンボジア人を殺すのです。

 

 

この”幹部”の少年たちも、いずれは言われのない罪で虐殺されるのです。

 

こういった収容所やキリングフィールドが、カンボジア全土で300カ所以上も発見されています。

 

過去にこの場で管理者として働いていた人の証言ビデオ、証言音声を視聴することもできました。

 

 

「自分が生き残ることを考えいた。」

 

「その時は、罪人を人間としてみていなかった。敵は殺さなければならないと思っていた。」

 

「私が敵を殴り殺すとき、そこに感情はなかった。」

 

 

もう洗脳状態です。

 

それを当たり前としなければ、自分が生きていけない状況。

 

 

私は空と地面を見るのが好きです。

 

その当時ここにいた人々は、空がどのように見えていたのか、と考えてしまいます。

 

この場所に来て、人間が怖くなりました。

 

 

鉄のベッド、

 

足かせ、

 

遺体の写真、

 

収容者の写真、

 

少年少女たち、

 

生き残った人の描いた絵、

 

さびた排泄物入れ、

 

拷問に使われていた道具、

 

有刺鉄線、

 

独房、

 

少年管理人、

 

赤ちゃん、

 

血、

 

口から出る泡、

 

当時からある白い花の木、

 

マンゴー、

 

頭蓋骨、

 

殴られた痕・・・

 

 

こんな恐ろしいことが、たった40年前に起きていたという事実。

 

この場所は、行ってみないと分からない。

 

カンボジアには、アンコールワット以外もあるんです。

 

現時点で、日本からアンコールワットのあるシェムリアップへの直行便はないので、どこかで経由が必要です。

 

もしカンボジアを訪れる時があれば、是非、経由地に首都プノンペンを選んで、自分で体験してみてください。

 

知らない、分からないだけで、国民が苦しんでいる国は、まだまだ現在もある・・・

 

それを意識させられる場所でした。

 


 

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8 thoughts on “トゥールスレン虐殺博物館。そこで見た事実を伝えたいと思います。”

  1. >恵吾さん

    コメントありがとうございます。
    自分で読み返すたびに、あの時の情景が思い浮かび、やりきれない気持ちになります。
    今も似たような事態が世界のどこかで続いています。
    多くの方に知ってもらうだけでも、少しずつ何かが変わるのでは、と思い筆を取らせていただきました。
    改めて、私の拙い文章を読んでくださりありがとうございます。

  2. とても読みやすく読み込める文章でした。
    ありがとうございました。

  3. >匿名さん

    ご指摘ありがとうございます。
    行間がある方がテンポ的に読みやすい、という意見がありましてこのスタイルにしていましたが、逆に読みにくいという意見もあることが分かりました。
    今後の参考にさせていただきます。

  4. 内容云々の前に、スマホだと物凄く読みにくい
    どうしてこんなに行間をあけているんですか?
    何十回スクロールしたことか

  5. >>jiji-shiさん。
    ”一人の死は悲劇だが、100万人の死は統計だ”という言葉が
    あまりにも恐ろしくて、記憶に残っています。
    国家は社会性動物である人間が、作らざるを得ない習性のたまものなのかな、と思います。
    あらゆる愚行(と思えること)の歴史があったとしても、人間は今のところ絶滅していないので
    何が正解なのか、全くわかりませんね・・・
    国民の1/3を失っても、息を吹き返すように生きているカンボジアの人々に出逢えたのは
    私にとって、非常に大きな経験です。
    実は今はベトナムにいます。
    ベトナムはカンボジアとは全く違った雰囲気と食文化ですね。
    (ブログは現実と少しズレているので・・・)
    カンボジアでの記録としてのブログはまだ続くので、また読んでもらえるとうれしいです。

  6. 先の短い私は、機会があっても、そこは行かないかもしれません。
    かつて鹿児島の知覧の特攻記念館に行ったことがありました。途中で、何でこんなものを観光施設してるのか、急に哀しくなって途中でフェイド・アウトしました。靖国神社の遊就館も、最後の部屋の英霊と名付けられた若い人たちの壁一杯の写真があります。ただ虚しくて、その命がもったいなくて、国家の愚劣な行為の例として自分の胸にとどめておきたい、と思っています。国家というモノが何の為にあるのか、私にとっては常に疑問です。

    カンボジアは暑いが故に、死体の腐敗も早いだろうし、土にかえるのも早いだろうが、一人の人間にとって、死は、西洋だろうと、極東だろうと、同じ意味なのだから、歴史の事実としてより残酷な恐怖感が残ります。

    まだカンボジアに居るんですね。カンボジア料理は慣れたでしょうか?では、元気で!

  7. >>ここんとうざいさん。

    初めまして。
    Animal Travelerです。

    あの頃のことを、カンボジアの方々に聞くのはタブーと聞いて、私は話題に触れる機会はあっても深く質問したことはないんです…

    原始共産主義に関しては、
    地雷博物館で聞いたり、
    カンボジアの歴史について調べているうちに知りました。

    ポルポトが毛沢東主義を参考にし、民主カンプチアを主導した、という話からですね。

    トゥールスレンでは、A〜B棟のどこかで、その話があったように思います。

    音声ガイドのストップ8番(アンカーの面々)のあたりだったか…

    何か、私が記憶違いのことを書いていたら教えてくださいね!

  8. 初めまして。

    自分もここには行ったことがあるので興味深く記事を読ませてもらいました。
    ポルポト時代のことはそう昔でもないから、今でもその時代に生きた人の声を聞くことができます。
    何人かに経験談を聞かせてもらいました。
    ところで、うかがいたいことがあるのですが。
    「原始共産主義(原始時代にもどろう!という考え。)を 持っていた人々が 人民の苦しみに漬け込んだから」
    この部分の「原始時代にもどろう!という考え」というのは音声ガイドでそう言っていたのでしょうか?
    S21やキリングフィールドのブログではよくこの言葉が出てくるので、「音声ガイドの影響かな?」と思いましたが。

    では、これからも良い旅を。

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